菓匠館 福壽堂秀信  


コラム 季の手帖


和菓子 月ごとの記憶 コラム 季の手帖トップへ戻る

睦月(1月)如月(2月)弥生(3月)卯月(4月)皐月(5月)水無月(6月)

文月(7月)葉月(8月)長月(9月)神無月(10月)霜月(11月)師走(12月)


睦月(1月)
お正月
お正月の記憶一
  いつも不思議であり、またうれしくもあったのは、年が明けた真夜中の、鐘の音がまだ響き聞こえる家の中で、暗い部屋の一つ一つをのぞくと、つい先ほどまでの喧騒がうそのように消え去っていて、ただしんとした清らかな気配がただよっていたことです。部屋ごとには小さな鏡餅が飾られていて、あれがきっと年神さまのもたらす淑気であったのでしょう。

お正月の記憶二
  冬枯れの庭におりて、しゃがんで土の上を見ると、春蘭の固い小さな芽がのぞいています。春蘭は「じじばば」と呼ばれていました。うつむき加減の花姿がお年寄りを思わせたのでしょう。お正月の庭の片隅でそのような自然のひそやかな変化を見つけることは、とてもうれしいことで、「は−るよこい、は−やくこい・‥」と小声で歌うのでした。

百花のさきがけ
  隆達小歌に「梅は匂いよ 木立ちはいらぬ」と。古今和歌集には「色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰が袖ふれし宿の梅ぞも」(読人知らず)と。視覚よりも、ときには聴覚や嗅覚に感じられるものにこそ抒情をさそう趣きがあります。
松の内の賑わいが去ったあとで訪れた天満宮の梅園には鄙びた風情がありました。梅は百花にさきがけて新年に咲き香るとされますが、寒の頃に花開いているのはほんのひともとふたもと。ただよう香りもあるかなきかで…。
天満宮の祭神はいずこも菅原道真公。天満天神といわれます。讒言により大宰府に左遷される折り、「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」と詠んだその梅が、道真を慕って太宰府まで飛んだといいます。菅公の飛梅は今でも大宰府の御神木です。人と梅との交流は古来このように盛んでありました。

花びら餅のこと
  初釜に使われる「花びら餅」が菓子として一般に売り出されたのは明治中頃であったといいます。その原型は平安時代の菱葩(ひしはなびら)というもので、これは宮中の元旦行事であった「お歯固め」という長寿を祝う儀式に用いられていたものです。平たい丸餅に赤い菱餅を重ね、味噌を塗ったごぼうを芯にして二つ折りにしていました。年賀参拝の公家たちに配られ「包み雑煮」とも呼ばれていました。
固いものを噛んで歯を丈夫にするとともに、「歯」は「齢」に通じて年齢を固める、つまり延寿の願いが込められていました。
さて先の隆達小歌は「人は心よ姿はいらぬ」と続きます。私たちは心も休も大切に暮らしましょう。


如月(2月)
節分
明かりの消えた部屋や窓外の暗闇に向かって「鬼はそと福はうち」と豆を投げやる習いは、闇の中になにやら悪しきもののひそみを思わせ、普段はなんでもない部屋の一つ一つが、かえってとてもこわく思えたものでした。
そんな節分の思い出は、「鬼」を外へ追い出すだけではどうにもならないと知っている今でも、まだ「闇」があった時代を懐かしみ、呪文のような言葉で「福」がどこからかやってきてくれるような、不思議な気分にさせてくれます。

現在では「節分」は立春の前日だけをいうようですが、本来は字のごとく、季節ごとの分け目をいうものでした。春の節分だけがいまに残っているのは、それが陰暦の大晦日の行事と重なっていたためと考えられています。
陰暦では立春がちょうど1月1日前後にあたり、新年を迎えることと春を迎えることとが、暦の上で重なっていたのです。年の終わりに豆をまいて鬼を外に出し、新しく福を迎えることは、厄払いのためでもあり、気分新たに新年新春を迎えようとする気持ちのあらわれでした。

このような節分の習俗は、追儺(ついな)という鬼追いの行事と豆まき(豆打ち)という二つの行事を含んでいます。
追儺(ついな)は、古くは朝廷で行なわれ、今でも神社やお寺で見ることができます。「鬼」の役割のものは、ムラの災いをすべて引き受け、そのうえでムラを追われるのです。その様子がパントマイムのように演じられます。災いをすべて引き受けた鬼を追い払うことで、ムラの安泰が約束されるのです。
ちなみにこのとき鬼を追うのに使うのが桃の枝です。桃は古くから破邪の効ありとされていました。
豆まきは、神社などの周囲に米(五穀)をまいて心霊をもてなす散米(さんまい)という儀式がもとになっています。これが鬼追いの儀式と結びつき、「豆をまいて鬼を追う」という行事として定着したようです。

節分の夜には、厄年の方が厄払いのために神社にもうでる習わしもあります。厄年は、男性が25、42、61歳。女性は19、33、37才。とくに男性42歳と女性33歳は本厄(大厄)とされ、前厄・後厄とあわせて3年は身を慎むべきとされてきました。関西では、節分の日にお饅頭やお善哉を配ると厄が払われるといいます。お寺などでは振る舞い善哉も行なわれます。
節分の行事には、長い冬が終わって新しく始まる春への期待がこめられているのです。



弥生(3月)
雛祭り
いまは女の子の幸せ願うお節句ですが、こうなったのは江戸時代の元禄の頃以降のことだといいます。雛節句は「上巳(じょうし、じょうみ)」ともいい、江戸幕府によって定められた五節句の一つです。五節句とは、人日、上巳、端午、七夕、重陽の五つのことで、いずれも厄祓いの行事を行なう日でした。
上巳は、3月最初の巳の日にあたり、古来、水辺で禊(みそ)ぎなどが行なわれてきました。平安時代から宮中で行なわれてきた「曲水の宴」も本来はその一つだったのです。

また3月3日は、上巳とは別に「重三(ちょうさん)」といい、めでたい数字とされる陽数(奇数)の三が重なる日として特別の意味をもっていました。上巳も重三も中国の習俗が伝わったものですが、この両日はいずれも穢れを祓うための同じような行事が行なわれていたため、時代が下がるにつれ、上巳は3月3日に固定してきました。そしてこの日の禊ぎやお祓いの行事として行なわれていたものが、雛節句の起源なのです。

中国では道教の影響で、わが身に降りかかる災厄を形代(かたしろ)に移し、それを地中に埋めたり川に流したりすることで、厄祓いを行なっていました。日本でも、紙で作った人形で体を撫で、それを流して厄を祓うという行事が上巳、重三の日に行なわれていました。この人形が雛人形として発展したのです。
「雛」には小さくて愛らしいという意味があります。

後世、次第に凝った人形が作られるようになり、江戸時代には雛人形を飾って祭る雛祭りの行事が3月3日に定着しました。元禄の頃には雛壇が作られるようになり、雛の調度も贅沢になりました。雛祭りが女の子のお節句となったのは、武事や軍事が多かった端午の節句と対照的に意識されたもので、お人形を飾るところから結びついたといいます。


今は、厄祓いという性格は薄れ、女の子の成長を祝うお祭りとなっていますが、「お雛さんは身代わりになってくれるから、大切にしなさい」と母が娘に伝える言葉は、雛人形が本来負っていた役割を思い出させてくれます。



卯月(4月)
花祭り
お釈迦様はどのような花のもとに生まれたのでしょうか。そのとき世界は歓喜し、竜は頭上に水を降らせて覚者の誕生を祝福したといいます。
4月8日はお釈迦様の誕生日とされ、潅仏会が催されます。花を飾った小さな御堂(花御堂)にお釈迦様の像を安置し、竜にならって水(甘茶)をそそいでお祝いします。この水は神々が飲む不死の水アムリタといい甘露と訳されます。
甘味は人間に喜びや楽しみをもたらす感覚であり、慈しみや慰めとなるように思います。お釈迦様の生誕を祝う甘茶(甘露)も、この甘味をもって供養となるのではないでしょうか。和菓子の甘味もまた同じように、癒しと供養に通ずるものがあるのです。
お花見
桜前線が近づくにつれ心浮きたつ季節、冬を乗り越えた目にうつる花こそまた格別です。いまでは桜を楽しむのがふつうですが、奈良時代には梅のお花見が一般的だったようです。
そもそも花を愛で楽しむことを行楽の目的とする文化は他国にはほとんど例がないようで、きっと桜という花のもつおおらかな、そしてはかない美しさが、日本人をしてお花見に向かわせるのでしょう。

桜の語源をたどると、稲の霊をあらわす「さ」と依り代としての「くら」から成るという説があります。農村では、満開の桜に降りたった神に豊作を願うという、春の予祝行事としてお花見が行なわれていたともいわれます。
一方で、元禄頃のはやり歌に「咲いた桜になぜ駒つなぐ 駒が勇めば花が散る」という端唄があります。満開の桜のように満ちたるものにのみ美を見出すのではなく、散る花やあるいは十三夜の月など、いわば移ろう季節のその「移ろう」ということにこそ諸行無常の美を感得してきたのも、私たちの文化です。
そういう美意識の伝統を、和菓子にも受け継ぎ生かしてゆきたいと思います。

色鉛筆画:西田よし子

次へ